第10代伊佐治春作の義叔父にあたる西山謙之助尚義は、勤王の志士として歴史文献に残っています。
ホームページ銀次のブログより引用させて頂きます。
安政6年(1859)に詠われた狂歌の中に、「念仏ばし わたるゆきゝ旅人も 笠をあみだにかぶる夏の日」(岩月、鶴成)がある。夏の暑い日に阿弥陀かぶりで旅人が念仏橋を渡る光景――。何やら念仏を唱えて阿弥陀かぶりをして渡るさまが思い浮かび滑稽な感じがしておもしろい。念仏橋は現在の栃木市内を流れる巴波川に架かる「幸来橋」のことを言っている。
念仏橋には欄干があった。弘化3年(1846)の「片柳河岸絵図」に描かれている念仏橋概要では、「長さが12間(21.8m)、幅2軒半(4.5m)、杭6本、手摺有り」と記載されている。手摺のある橋であり、栃木河岸問屋がそれなりに出資しての立派な橋だったと思われる。
慶応3年(1867) 12月11日(新暦1月5日)の夜半の五つ時(午後8時)。巴波川に架かる念仏橋の左岸にある西木戸は閉じられていた。念仏橋の方から「吾れ西山謙之助、開門せよ」と名乗り、木戸を開けて槍を引っ提げた騎馬2騎が供の者1人を従え栃木宿内に入ってきた。この3人は、栃木宿に先乗りしている5人の先発隊の応援のために鍋山村からやってきた西山謙之助ら薩摩出流山糾合隊の浪士たちであった。
暗闇の中、篝火に照らされた木戸口では鉄砲、槍で武装した栃木陣屋藩士と町民兵50人が待ちかまえていた。「ズドーン」と鉄砲の合図で2頭の騎馬に陣屋勢が襲い掛かる。西山謙之助ら2人は馬から引きずり降ろされ、討ち取らていった。供の者としてついて来た国定忠治の子息、大谷刑部は逃げることができたが、岩船の戦いで捕えられ、天明河原にて斬首されていく。今から150年前の慶応3年(1867)の12月11日に出流山事件における念仏橋西木戸口での戦い。
慶応3年(1867)10月15日の大政奉還を受けて京都を舞台に、天皇を中心にした新しい政治体制を廻り、権力闘争が展開されていた。徳川を倒して新政府構築を目指す討幕派の薩長。徳川を含めて新政府を構築する山内容堂、松平春嶽ら公議政体派との争い。流れは徳川を交えて諸侯会議で進める公議政体派になりつつあった。しかし、「徳川を倒してこそ王政復古は成る」とする薩摩藩は何としても徳川を倒すことを宿願として、江戸、関東を擾乱状態として武力衝突への挑発行為を画策する。
その画策、挑発行為とは相良総三を中心に江戸薩摩屋敷に屯集した尊王攘夷の浪士、草莽の士で構成する薩摩屋敷屯集糾合隊による、下野、甲州、相模の3か所と江戸における擾乱状態を作るための挑発行為であった。この画策は徳川・庄内藩による江戸三田薩摩藩邸焼打ちを招くことになる。翌年の正月3日の鳥羽伏見において、薩摩の家来の処罰を求める「討薩之表」を掲げて京都に進軍した幕府軍と薩長連合との戦闘に繋がっていった。戊辰戦争の始まりである。このことから下野における出流山糾合隊と幕軍との戦闘、所謂「出流山事件」は、戊辰戦争の一つとして捉えられている。
慶応3年11月29日に下野出流山満願寺本堂前の広場で討幕挙兵した薩摩藩出流山糾合隊は170人に増加していった。地元栃木町近在の者たちは3年半前の水戸天狗党と立ち振る舞いが類似していることから、彼らを「出流天狗」と呼び、畏れた。
増大した糾合隊はより以上の資金を必要とした。近在からの資金が思うように集まらない。そのため、足利藩栃木陣屋に薩摩藩として借入を強要していくことになる。12月10日に元浪士隊の高橋亘一行5人は栃木宿旅籠押田屋に滞在し、足利藩栃木陣屋奉行、善野司を押田屋に呼びつけ資金借入の交渉を行なう。栃木陣屋奉行、善野司は水戸天狗党対応への誤りからすでに関八州取締出役を始め近隣諸藩に討伐を要請していた。
この時、すでに関八州取締出役澁谷鷲郎に率いられた上州岩鼻陣屋の鉄砲隊を含めた200名の農兵が出兵し(樋口雄彦著「幕末の農兵」)、合戦場宿に待機していた。また、善野司は町年寄を通して警報を発し、町民兵による通りの店先の警戒、防火用水の手配、4つの木戸口を固める準備をしていた。
翌11日に陣屋側は千両を高橋一行に渡すことを確約し、まず五百両を渡し、残りを夕刻に渡すことを通告した。そして夕刻の七つ時(午後5時)、押田屋に鉄砲隊が取り囲んだ中、関八州農兵隊が突入した。糾合隊3人が斬殺され、高橋亘ら2人は逃亡した。後日、捕えられた高橋亘は天明河原で斬首される。また斬殺された3人の内2人、斎藤泰蔵と高田国次郎は近在の粕尾村農民出の20代の若者であったと云われている。
栃木市蔵の街大通り、倭町交差点手前にあった旅籠「押田屋」は栃木陣屋からわずか200mの近距離であった。跡地には旅館「晃陽館」「鯉保別館」「ホテル鯉保」へと変遷し、現在ではファミリーマート店が開業している。
同夜、鍋山村から応援にきた西山謙之助ら3人も念仏橋西木戸にて警戒待機していた栃木陣屋の藩士、栃木町民兵によって討ち取られている。斬殺された糾合隊5人の首は瀬戸ノ原に晒され、亡骸も同所に棄てられたという。
栃木町民にとり尊王攘夷とか王政復古とは関係なく、ただただ3年半前の「水戸天狗党愿蔵火事」への恨みをはらすということであった。町の半分の350~400軒が焼失し、罹災者700人、田中愿蔵隊に殺害された町民13名という甚大な被害をうけた。水戸天狗党とか出流山糾合隊とか関係なく「尊王攘夷」を掲げる浪士たちの憤懣と町を防衛するということでの戦いであった。
ただ、残念なことに、この時の「栃木町民兵」については栃木市史にも出てくるが、確かな史料がなく、町民兵についての詳細は不明なままになっている。今後の研究課題の一つになっている。
出流山満願寺山門前旅館にいた竹内啓ら糾合隊は栃木宿の戦闘を知り、おとり部隊11名を残し、12月11日の真夜中、鍋山村から唐沢山城を目指して移動をした。しかし、12日の早朝、岩船山麓にて鉄砲隊200名を主力とする1000名の幕府軍によって壊滅した。糾合隊には鉄砲がなかったと云われている。12月15日と18日に捕縛された糾合隊41名が佐野天明河原にて斬首され、戦死者を含め78名が斃れていった。
栃木市内を流れる巴波川が左に大きく曲がる処に「うずま公園」がある。かつて、瀬戸ノ原と言われていた。このうずま公園内にある栃木市営駐車場の中に念仏橋(現幸来橋)西木戸の戦いで戦死した23歳の西山謙之助(尚義)の供養塔が建っている。西山謙之助の亡骸が埋葬されたといわれている地である。
どうして西山謙之助だけ命名された供養塔なのか…?近在の村の者で一緒に葬られた者の供養塔はないのか?――分からない。
この地に下都賀郡役所が建てられたのが明治16年(1879)10月。栃木宿問屋場のあった長谷川展旧本陣宅からの移転であった。
長谷川伸著「相楽総三とその同志」の中で瀬戸ノ原を次のように記している。当時の雰囲気が伝わってくる。
「(栃木宿戦闘で戦死した糾合隊)の死体をセドの原の一ツ穴へ棄て葬いにした。セドは裏の意味で、宿外れの一ツ穴へ投げ込むことを宿のものはぼっこみといった。そこは大名の通行などのとき斃馬が往々にして出る、それを抛りこんだ処である。
後代になってその場所近くに郡役所が建つので、地盛りのために、そこから要るだけの土を掘りとった。ところが、斃馬の供養に建てた馬頭観世音の碑のある近くから、人の骨が出たので、そこだけ止めて他を掘った。その土工作業が終って、雨がたびたび降るうちに、掘った跡に水溜りが出来て、馬頭観世音の碑のある堀り残した処だけが中の島の如くなった」
昭和35年(1960)に下都賀郡役所職員が浄財を募り、「西山謙之助供養塔」が建てられた。栃木市史では西山謙之助の老父が戦死の地を弔いたいと栃木町きたことと錦着山に記念碑が建てられていることから供養塔を建てる動機になったとしている。一昨年の平成27年の11月には地元の有志によって供養塔にりっぱな祠が設置された。馬頭観世音石碑は公園の南端、巴波川の畔に建っている。
美濃国(岐阜県)侍医の子として生まれた西山謙之助は慶応2年(1866)22歳の時に江戸に出て、斎藤弥九郎に剣、平田銕胤に国学を学ぶ。慶応3年(1867)10月に薩摩邸糾合所に入り、出流山事件に加わる時に故郷父母に、「あながちに文かかむと思ふだに先立つもの涙也けり」と書き出しから始まる手紙は生き残りの者によって「尚義遺芳」として出版された。勤王を志して斃れていった若者象として長谷川伸著「相楽総三とその同志」を通して世間に知られるようになっていく。
長谷川伸は同書で書かれた手紙を引用し、「尚義儀、今般、尽忠報国の士列に加わり、遠祖以来受候、国恩の万一を奉じ賜り候心得に御座候、就ては生前拝領の儀は十分相叶儀と奉存候に付き、書中を以て謝罪労御訣別申上候とつづき、今度の挙兵は錦旗を奉じて、嘉永6年以来違勅の罪をかさぬ幕府を討つもので、事の成否はわからない。敗れたとて五百年以前の橘公のあとを行くもので、稀代の盛挙、不巧の名誉、これに過ぎたるはない。併しながら23年の高恩をうけ、殊にこの一両年はご心配をかけ塵ほど孝行せず、こういうことになるは不幸千万で恐懼の極みであるが、盛挙を知って座視して天罰に値すると、赤心を吐露した大文章で、読むものとして襟を正させる」と悼む心情を記している。
栃木市郊外の西にある錦着山。その頂きには明治11年(1878)に初代栃木県令鍋島幹によって明治維新の勤王の志士から西南戦争の際の戦死者までを合祀するための招魂社が建てられている。その招魂社本殿脇の斜面に西山謙之助の石碑が信州上田住人、義兄弟の丸山久成(金井清八郎)氏によって建てられている。
石碑の背面には、「千重の一重の石に萬代に伝へてむ」と変革の志を後世に伝え讃えていく文言が刻まれている。碑文はかすれて読めない。その碑文内容は中島勝国編「西山謙之助書簡集」に収められていた。碑文には異なる事項もあるが、記載させていただくことにしました。
栃木市錦着山招魂社「西山尚義碑」碑文
「此は西山謙之助が墓ぞ。諸人等汚穢しなせそ。鳥獣よ。この益荒男はも。美濃国泳の殿人にて。古の道に志深く。吾と同く気吹舎の翁の教子となり。其学芸に居留て勤みけるに。志し慶応の三年といひとしの冬のはしめ。天皇の勅を畏まで世間を擾乱さむとする醜の奴はらを討罰めんと。同志の人々。或侯の江戸の御館の屯集り。大事を議りし時に竹内啓ぬし手に属てこの下。毛野に下り。磐船山に旗上せむとせしかも。功業不就して敵等に取囲まれ戦歿の際に臨みて数人を討取るなやめ。同き十二月十一日。年二十三にして此里の露と消えたりし。僕□皇と国とに身をまかせ命罷たるゆへ。よしの千重の一重の石の□りて、萬代に伝へてむと思起して。学問に談らひけるに。そよしれよけむと其失費さへ助け賜ひければ。やがて如此経営けるになむ。そは尚義か義兄なる。信濃国人丸山久成」(中島勝国編「西山謙之助書簡集」より)
幕末の栃木町。例弊使街道宿場町として、さらには巴波川舟運による物流の一大集積地として活況を呈した。
元治元年(1864)6月6日の過激攘夷派の水戸天狗党田中愿蔵隊による「栃木町焼打ち事件」。その3年半後の慶応3年(1867)12月11日の栃木宿戦闘、「出流山事件」がおきた。こうした事件を通して栃木町は幕末の渦に巻き込まれていく。とりわけ出流山事件では、栃木宿戦闘、出流山戦闘、岩船山麓の戦闘で78人が斃れていった。この中には栃木周辺からの在地農民を始め私塾で学んでいた若者や儒学者ら参加していった。薩摩藩からの武器援助もなく、圧倒的な幕府の武力の前に壊滅をしていった。
討幕を掲げた薩摩藩の捨石としての戦闘であったのではないかと思える。本当に必要な戦いであったのか?
天皇を中心とした王政復古の政体は徳川慶喜も描いての「大政奉還」であった。坂本龍馬が暗殺される直前の11月に土佐藩重役に示した坂本龍馬自筆で記した「新政府綱領八義」。公議政体を基本とした大政奉還後の議会制度、官制、外交、大典(憲法)の撰定、軍政などに加えて、最後に「右預メ二三ノ明眼士と議定シ諸侯会盟ノ日ヲ待ツテ云々〇〇〇自ラ盟主ト為リ此ヲ以テ朝廷ニ奉リ始テ天下万民ニ公布云々強抗非礼公議ニ違フ者ハ断然征討ス権門貴族モ貸借スル事ナシ 慶応丁卯十一月 坂本直柔」との政体案を示している。
文中の〇〇〇部分は島津久光説、山内容堂説、徳川慶喜説、大統領説などあり、今も通説は定まっていない。しかし、大政奉還からつながる坂本龍馬政体案こそが、日本のすすめていく方向ではなかったかと思える。新たな明治の世を築く坂本龍馬新政体案でいっていたならば「戊辰戦争」などは起こらず、出流山事件等無駄な死はなかった筈だ。しかし、薩摩藩西郷、大久保は慶喜を絶対に許さず、慶喜の、〇〇〇盟主阻止にむけて武力討幕へと進んでいった。… 龍馬暗殺の背後には薩摩、西郷がいると思えてくる。
大政奉還、龍馬暗殺、出流山事件は今から丁度150年前におきた出来事だ。150年を節目にうずま公園に建つ「西山謙之助供養塔」は、今一度明治維新を問い直すべきだと私に語りかけてきていると思えてきた。
《夢野銀次》
≪参考資料引用書籍≫
「安政六年狂歌扶桑名所名物集下野」(1988年栃木史心会発行)/長谷川伸著「相楽総三とその同志」(昭和46年12月朝日新聞社発行「長谷川伸全集第7巻」収録)/中島勝国編「可児歴史業書西山謙之助書簡集」(1983年発行)/「栃木市史通史編」(昭和63年12月栃木市発行)/稲葉誠太郎著「水戸天狗党栃木町焼打事件」(昭和58年11月ふろんていあ発行)/樋口雄彦著「幕末の農兵」(2017年12月現代書館発行)
栃木市内を流れる巴波川が左に大きく曲がる処に「うずま公園」がある。かつて、瀬戸ノ原と言われていた。このうずま公園内にある栃木市営駐車場の中に念仏橋(現幸来橋)西木戸の戦いで戦死した23歳の西山謙之助(尚義)の供養塔が建っている。西山謙之助の亡骸が埋葬されたといわれている地である。
どうして西山謙之助だけ命名された供養塔なのか…?近在の村の者で一緒に葬られた者の供養塔はないのか?――分からない。
この地に下都賀郡役所が建てられたのが明治16年(1879)10月。栃木宿問屋場のあった長谷川展旧本陣宅からの移転であった。
長谷川伸著「相楽総三とその同志」の中で瀬戸ノ原を次のように記している。当時の雰囲気が伝わってくる。
「(栃木宿戦闘で戦死した糾合隊)の死体をセドの原の一ツ穴へ棄て葬いにした。セドは裏の意味で、宿外れの一ツ穴へ投げ込むことを宿のものはぼっこみといった。そこは大名の通行などのとき斃馬が往々にして出る、それを抛りこんだ処である。
後代になってその場所近くに郡役所が建つので、地盛りのために、そこから要るだけの土を掘りとった。ところが、斃馬の供養に建てた馬頭観世音の碑のある近くから、人の骨が出たので、そこだけ止めて他を掘った。その土工作業が終って、雨がたびたび降るうちに、掘った跡に水溜りが出来て、馬頭観世音の碑のある堀り残した処だけが中の島の如くなった」
昭和35年(1960)に下都賀郡役所職員が浄財を募り、「西山謙之助供養塔」が建てられた。栃木市史では西山謙之助の老父が戦死の地を弔いたいと栃木町きたことと錦着山に記念碑が建てられていることから供養塔を建てる動機になったとしている。一昨年の平成27年の11月には地元の有志によって供養塔にりっぱな祠が設置された。馬頭観世音石碑は公園の南端、巴波川の畔に建っている。
美濃国(岐阜県)侍医の子として生まれた西山謙之助は慶応2年(1866)22歳の時に江戸に出て、斎藤弥九郎に剣、平田銕胤に国学を学ぶ。慶応3年(1867)10月に薩摩邸糾合所に入り、出流山事件に加わる時に故郷父母に、「あながちに文かかむと思ふだに先立つもの涙也けり」と書き出しから始まる手紙は生き残りの者によって「尚義遺芳」として出版された。勤王を志して斃れていった若者象として長谷川伸著「相楽総三とその同志」を通して世間に知られるようになっていく。
長谷川伸は同書で書かれた手紙を引用し、「尚義儀、今般、尽忠報国の士列に加わり、遠祖以来受候、国恩の万一を奉じ賜り候心得に御座候、就ては生前拝領の儀は十分相叶儀と奉存候に付き、書中を以て謝罪労御訣別申上候とつづき、今度の挙兵は錦旗を奉じて、嘉永6年以来違勅の罪をかさぬ幕府を討つもので、事の成否はわからない。敗れたとて五百年以前の橘公のあとを行くもので、稀代の盛挙、不巧の名誉、これに過ぎたるはない。併しながら23年の高恩をうけ、殊にこの一両年はご心配をかけ塵ほど孝行せず、こういうことになるは不幸千万で恐懼の極みであるが、盛挙を知って座視して天罰に値すると、赤心を吐露した大文章で、読むものとして襟を正させる」と悼む心情を記している。
栃木市郊外の西にある錦着山。その頂きには明治11年(1878)に初代栃木県令鍋島幹によって明治維新の勤王の志士から西南戦争の際の戦死者までを合祀するための招魂社が建てられている。その招魂社本殿脇の斜面に西山謙之助の石碑が信州上田住人、義兄弟の丸山久成(金井清八郎)氏によって建てられている。
石碑の背面には、「千重の一重の石に萬代に伝へてむ」と変革の志を後世に伝え讃えていく文言が刻まれている。碑文はかすれて読めない。その碑文内容は中島勝国編「西山謙之助書簡集」に収められていた。碑文には異なる事項もあるが、記載させていただくことにしました。
栃木市錦着山招魂社「西山尚義碑」碑文
「此は西山謙之助が墓ぞ。諸人等汚穢しなせそ。鳥獣よ。この益荒男はも。美濃国泳の殿人にて。古の道に志深く。吾と同く気吹舎の翁の教子となり。其学芸に居留て勤みけるに。志し慶応の三年といひとしの冬のはしめ。天皇の勅を畏まで世間を擾乱さむとする醜の奴はらを討罰めんと。同志の人々。或侯の江戸の御館の屯集り。大事を議りし時に竹内啓ぬし手に属てこの下。毛野に下り。磐船山に旗上せむとせしかも。功業不就して敵等に取囲まれ戦歿の際に臨みて数人を討取るなやめ。同き十二月十一日。年二十三にして此里の露と消えたりし。僕□皇と国とに身をまかせ命罷たるゆへ。よしの千重の一重の石の□りて、萬代に伝へてむと思起して。学問に談らひけるに。そよしれよけむと其失費さへ助け賜ひければ。やがて如此経営けるになむ。そは尚義か義兄なる。信濃国人丸山久成」(中島勝国編「西山謙之助書簡集」より)
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