伊佐治家住宅

国登録有形文化財 「伊佐治家住宅」

(岐阜県可児郡御嵩町古屋敷字大王寺381番地)

 明智光秀の生誕地,美濃国明智庄に230年続く伊佐治家の母屋はじめ5件が平成30年5月「国登録有形文化財」に登録されました。( [主屋] [上座敷」「茶室」「土蔵」「長屋門」)

 御嵩(みたけ)は中山道の宿場町として著名で、皇女和宮江戸降嫁行列や魯山人が通過しております。

 古屋敷村は美濃国明智庄の八村の一つで、西の瀬田村に明智光秀の生誕と言われる明智城があります。古屋敷村は旗本妻木氏領であり、妻木頼保は奈良奉行として大仏殿江戸再建に尽くしたことで知られます。当屋敷の北隣に伊佐治家の先代で用人として随行し功績があった伊藤次郎兵衛の屋敷がありました。

 平成30年5月、230年余続く屋敷の主屋はじめ5件が「伊佐治家住宅」として「国登録有形文化財」に登録されました。(平成30年5月10日(官報告示日)付け文化財登録原簿に登録、告示第75号(21-0256~0260)主屋ほか計5棟)         

 明治37年(1904)日露戦争*が始まり、この家から第10代伊佐治春作が出征しました。乃木将軍麾下の第三軍に属し、陸軍砲兵中尉として   二〇三高地・奉天会戦に従軍、帰還後は可児郡中村村長などを務めました。

 春作の残した『日露戦争従軍日記―駒のいななき』を春作75回忌、日露開戦100年を記念して出版しましたが、この度「Kindle電子書籍」で再出版しました。


上座敷と枯山水のある庭園、庭続きに5世紀の古墳。

春作日露戦役に出征(イメージ)
春作日露戦役に出征(イメージ)
奥座敷から築山を望む。枯山水庭園    欄間の「亀翁軒」揮毫は村瀬太乙翁
奥座敷から築山を望む。枯山水庭園   欄間の「亀翁軒」揮毫は村瀬太乙翁

歴史

 

天保8年1837家相図

江戸時代

中山道皇女和宮降嫁行列 掌中覧要( ハンドブック)より
中山道皇女和宮降嫁行列 掌中覧要( ハンドブック)より

万治1年(1658)     妻木家七千石拝領の「村々高覚」にも古屋敷村記述あり          元禄9年(1696)妻木彦右衛門(頼保)奈良大仏殿再建のため奈良奉行に任ぜられ 、伊佐治家の先代伊藤治郎兵衛は用人として随行し功績があった。                                元禄15年(1702) 伊佐治家初代歿す。(通源秀達居士)                        天保6年(1835)  伊佐治家中興の祖、第5代吉兵衛歿(享年89歳)                                              文政元年 第7代藤三郎父加藤弥三郎、久々利村との境界争いにつき寺社奉行に出訴し古屋敷村の勝訴となる(★いわゆる「山論」(中島勝国氏編あり))                                                     藤三郎、旗本妻木氏の用人となり、名字帯刀を許され可児郡・土岐郡の代官を務める。                                                 安政3年(1856) 尾張藩成瀬織部の小姓として勤仕していた野田與三郎(21歳)を尾張藩士野田家より迎える。 安政6年(1859)  第8代與三郎家督相続

築山枯山水庭園にて第10代春作(最上段髭)、かひ、春景

第5代伊佐治吉兵衛(1835天保6年歿) 享年89歳


明治時代

明治13年(1880) 2/25第10代春作生まれる

明治31年(1898)  第10代春作家督相続

明治37年1904)  春作日露戦役従軍

 11月春作従七位     

明治38年(1905)   旅順開城、奉天会戦を経て日露講和となる

明治39年(1906)3/9春作凱旋帰郷、

叙・勲六等(1907 ) 単光旭日章、功五級金鵄勲章

明治40年春作、中村村長に就任   


大正時代

昭和時代イベント

屋敷の変遷

第6吉兵衛(~天保6年1835) 現在の母屋の原型を築く。(「四つ建様式*」)

勘七(~文政2) 庭園(築山泉水)を築く、

藤三郎(~明治5) 茅葺の母屋を瓦屋根2階建にした。(天保8年家相図)

 長屋門、嘉永3年上座敷(亀翁軒)つくる。

 

明治43年家政整理のため転出していた上座敷を買い戻し母屋と連結(「上座敷復興記録」(伊佐治春作記))

明治44年茶室移転(松桧庵を移し「櫻下軒」と改称)

土蔵修繕(壁改修、屋根葺き直す)

 松桧庵を移転(「櫻下軒」と改称,明治44年)

*四つ建様式について   (西面する敷地奥に南面して建ち、切妻造桟瓦葺で下屋を廻らす。西半を広い土間とし、二列構成の居室部は上手に座敷二室と前後に畳縁、下手に四室を並べる。軸部は当地方の民家の特徴の一つ、四つ建形式を基本とし、土間に重厚な軸組を現す上質な近世民家。)

地蔵堂(文久元年1861建立し老朽化したので平成24年に再建した。延命地蔵座像 地蔵本体は文久以前と思われる)。元は 南に下る旧久々利街道分れ道にあった。

右に並ぶ道標は天保5年1835第5代吉兵衛が建てたもの(「念仏一百万遍之塔 右くゝり左ひらしば」玄雄居士の銘あり)

万延元年1860 家相図

日露戦争について

イベント

(明治天皇崩御)

 大正元年 明治天皇追悼講演会を「亀翁軒」にて開催{旧制東濃中学校八木校長他)

大正2年 春作中村村会議員                                  

写真館

日露戦役第三軍参謀 福島安正大将の揮毫 (明治25,26年単騎シベリヤ横断の壮挙を為す)
日露戦役第三軍参謀 福島安正大将の揮毫 (明治25,26年単騎シベリヤ横断の壮挙を為す)

プレス

・中日 16.12.06『ぶらり東濃これいかに?』

・岐阜新聞WEB181125

・中日「国際園芸アカデミー 滝の石組が現れる」180710

・朝日「登録へ180310

・朝日『江戸から歴史刻む御嵩の伊佐治家住宅。写真キャプション「長屋門は石垣の上に立ち、切妻造りで南北20メートルに及ぶ』

・中日「東濃歴史散策980724 黒田正直氏ブログ」

・岐阜『歴史薫る伊佐治家181125

・中日「登録有形文化財プレート、町長から181125サンデーワイド